「Coffee Break」の版間の差分

提供:帰山栄治作品解説集
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
編集の要約なし
 
(同じ利用者による、間の4版が非表示)
1行目: 1行目:
==Coffee Break==
==あしたの風==
*[[#「序曲」の裏曲目紹介]]
===はじめに・・・===
*[[#華燭の思い出]]
 生まれて初めてマンドリン合奏に参加し、「マンドリン音楽」というものを知ってから41年。この間、様々な音楽上の出来事を経験する中で、マンドリン合奏、マンドリン音楽に対する自分なりの見方や考え方ができあがってきた。
*[[#三楽章第三番のティンパニソロ]]
 最初は、合奏で楽器を弾き、次いで、合奏を指揮し、それから、編曲と合奏指導にと範囲を広げ、最後に作曲に行き着いて今に至っているわけだが、その間、常に音楽の現場に身を置きながら、自身の音楽レベルの向上に努めてきた。また、主として作曲や編曲を通じて、マンドリン合奏の可能性を探りつつ、マンドリン音楽の未来について考えてきた。
*[[#Ouverture Historiqueの読み方]]
 
===「序曲」の裏曲目紹介===
 この連載は、マンドリン音楽・合奏を巡るあれこれの問題を一回ごとのテーマにしながら、最終的には「可能性と未来」をどのように考えるかに向かって進めて行きたい。
 
 1回目は、今でもはっきり覚えている過去のエピソードから、いくつか選んで簡単に紹介することにしよう。
 
合奏初体験
 大学1年の6月頃、全体合奏。50人ものギターパートに混じって、へえー、合奏ってこんなものなんだ・・・マンドリン以外にも色々な楽器があるんだ・・・こんな音楽(クラシックの意)もあるんだ・・・
 
指揮初体験
 大学2年の6月頃。80人を超える奏者を前にして、とにかく指揮棒を振り下ろしてみると、みんな一斉に音を出してくれた。指揮というのはこんなものなのかと、驚きの実感・・・
 
指揮のレッスンに通う
 大学2年の秋頃から毎週1回、ある作曲家のもとへ。指揮のレッスンのはずなのに編曲の課題ばかり出される。10数年後にこの先生に偶然会った時、「えっ、君はあの時、作曲じゃなくて指揮を習いに来ていたの?」と・・・
 
中野先生の指導
 大学2年の12月初め。マンドリン音楽界の大先輩、中野二郎先生に合奏の臨時指導を乞う。指揮は「気」にあり、か・・・
 
作曲ができない
 大学2、3年の頃。2年上、3年上の指揮の先輩から集中的に音楽のことを注入される。3年上の先輩からは、夏休み中に2曲作曲してこいと言われたものの、2年続けて作曲の「さ」の字もできない。編曲とは質の違う作曲の難しさを知る。
 
合奏指導を始める
 大学4年の時、某女子大マンドリンクラブの指導を始める。同時に演奏会用レパートリーの編曲も。3年後には、3つの女子大MCの指導に通う。自らの編曲と作曲、及び演奏法や合奏法の勉強に持って来いの音楽現場。
 
作曲のレッスンに通う
 1967年(24歳)、作曲を学ぶべく中野二郎先生の門をたたく。「私は教えられないから、この人を訪ねて行きなさい」と言って、中田直宏先生を紹介される。ちなみに、中田先生が大学で教えた学生の中に、後にマンドリン界と関わるH氏、F氏がいる。兄弟弟子である。
 この時、中野先生が自分が若かりし頃に独習した、R. コルサコフの日本語訳の和声法の本を見せてくれた。至る所に赤いアンダーラインが引いてある・・・
 
初めて作曲ができた
 1967~68年、作曲の赤ん坊が初めて「よちよち歩き」できた。その時の曲が「前奏曲」。次いで、68~69年にかけて「ハ短調の序曲」を作る。初演は26歳になったばかりの時であったが、作ったのは25歳の時。「とても26歳の人が作った曲とは思えない・・・」などと言われるたびに、内心では「ムッ・・・」。
 
チルコロの指揮
 1968年(25歳)から、名古屋マンドリン合奏団(チルコロ・マンドリニスティコ・ナゴヤ)の指揮者を5年間務める。その間の8回の演奏会全てに編曲作品を提供。2年ほど中断の後、さらに2年指揮をする。己の指揮の未熟さを痛感した時期でもある。プロの指揮を、演奏会やテレビで見続け、漸く、指揮の動きや表情の変化の音楽的意味が「必然」として分かるようになる。
 
作曲の悩み
 1970年に「Ouverture Historique」を書く時から、徐々に「古典音楽の世界」から脱皮すべく、実作の中で様々な試みを始めるが、その結果・・・
 1974年、「劫」の作曲が全く進まない。何を書けばいいのか、自分は何を書きたいのか、何も出てこない。この苦しみはいつまでも続くのか・・・囲碁の「コウ」は初心者にとって、いつまで続くか分からない苦しさ・・・よし、今度の曲のタイトルは「劫」と付けて、この苦しさから逃れようとするのではなく、この心理状態を作品の世界としよう・・・
 この頃、ある音楽評論家に解決策を求めて相談したら、「自分の書きたい音を書けばいいんじゃない?」という助言。それが分からないから、出てこないから悩んでいるのに・・・
 
模索の10年
 「劫」以後、自分の音楽の世界、自分の音楽の言葉を探し求める「模索」が、「民族性」をキーワードに10年ほど続く・・・
 
マンドリン音楽界の外の人たち
 「東海音楽舞踊会議」という、音楽、舞踊及びそれに関係する人たちが集う「会」があった。「東海・・・」と言っても、メンバーは、ほとんどが名古屋、岐阜を中心に活動している音楽家や舞踊家であるが、創造上の様々な問題に関して互いに議論を交わす場である。
 確か、28歳の頃に参加したと思うのだが、2、3年の間は、議論の場で盛んに使われる「創造性」とか「現代性」とかいう言葉の意味が分からなかった・・・「創造性がある」って、一体どういこと・・・?
 
マンドリンの音が好きになれない
 1980年頃、「東海音楽舞踊会議」の合評例会で自作の「マンドリンアンサンブルのための念」(多分)が批評の対象になった時のこと。「マンドリンの音がなぜか好きになれない」と、つい漏らしてしまった。すかさず、「好きにならないで良い作品が作れるわけがないだろう!」とやられた。弁解、逃避、思い上がり等々を改めて知る。音楽や楽器に対して、謙虚に、誠実に、真剣に、素直に、いつも熱い思いを持って・・・
 
マンドリン音楽以外の作曲
 この「東海音楽舞踊会議」で他ジャンルの人たちと知り合って、ギター・マンドリン音楽以外の音楽を作る機会が与えられた。室内楽、合唱音楽、邦楽器音楽、そして、劇音楽、バレエ、現代舞踊のための音楽等々・・・これらの経験は全てマンドリン音楽の作曲にもいかされている。
 
===2度の時代===
 ある人、ある物の長所と短所(欠点)にどのように対処しますか。
多くの場合、欠点にばかり目が行き、それを何とかして隠そうとする。
長所にはなかなか目が向かないから、それをもっと伸ばそうとすることができない・・・
 
 マンドリン合奏曲の作曲を始めて、しばらくすると、当然のことながら、「マンドリン合奏の特徴を生かした作品を書きたい」と思うようになる。ここまでは良いのだが、この後に、先に述べた落とし穴が待っていようとは・・・
 
 マンドリンのトレモロによるレガートのフレーズを考えた時、跳躍する音程は音がつながらない、特に弦が変わる場合、更に上昇するより下降する跳躍音程・・・まず、レガートにならない。それなら、2度音程をメインにモチーフを作れば、確実にレガートに演奏されるだろう・・・ 幸い(?)、我々日本人は、歴史的に長2度の音程に慣れ親しんでいる。わらべ歌がそうであるし、今はほとんど聞くことがなくなったが、豆腐売りのラッパは「トーフイー」と歌っていた・・・
 
 このようにして、「2度の時代」が始まった。より正確には、マンドリンの欠点を隠そうとして「2度にこだわった時代」であった。
 これと並行して、トレモロを使用しないで表現するということも色々やってみた。しかし、これも、トレモロ自体の持つ「非音楽性」(音楽的にいやな音)という欠点を隠そうとすることが優先し、non-tremoloで表現する「音楽的優位性を押し出す」ということにはなっていなかった。
 
 「マンドリン合奏にギターという楽器が必要なのか」という大きな問題については、ここでは触れないが、ギターの扱いにおいても、その頃は同じような姿勢であった。
 つまり、ギターという楽器は「音量が出ない、特に高音弦」「学生などのアマチュアの団体では技術的な制約が大きい」などの「欠点」がある。それ故、これらの欠点を隠すためにとった手段としては・・・
 全体がピアノの部分で重要な役割を持たせるようにし、その部分は技術的に難しくしない。全体がフォルテなどでギターの音が聞こえないような部分では、技術的にもある程度難しくする。正確に弾けなくても全体に与える影響はほとんどないだろうという考え方。
 
 さて、これらマンドリンの問題にしても、ギターの問題にしても、結局は、「自分にとっていやな音が出ないようにする」という「そぎ落とし」の解決方法である。欠点を隠せば、ある程度「見場の良い」姿にはなるかもしれない、しかし、表わす音楽の世界は、小さくはなっても大きくはならないだろう。窮屈にはなるかも知れないが、伸び伸びと広くはならないだろう。
 
 1982年、神戸大学MCの委嘱により「Ouverture Historique No.4」の作曲に取りかかった。この時、10年近く続いていた「2度の束縛」を自ら解いてみようと、序奏部分と緩徐部分で思い切って跳躍音程を使ったレガートのモチーフを書いた。
 
 この作品は、「特徴と優位点」を意識的に表に出して行けば、その分「欠点」などは目立たなくなるという方向への出発点になった。そして、この後、マンドリンやギターの持つ「欠点」に対して、徐々に「やさしく」接することができるようになっていく・・・
 
===感覚のスリコミ(1)===
 「言語形成期」という言葉を知っていますか?
 言葉や言葉に対する感覚を身につける期間のことで、大体10歳過ぎから15,16歳の間だと言われています。
 この期間は、子供言葉から大人の言葉への移行期で、自分が育った地方の方言や大人の言葉を身につけ、基本的な言語感覚が形成されるのだという。そして、一旦身につけた(=すり込まれた)この言語感覚は一生変わらずに残るとも・・・
 
 カラオケなどで、こんな話を聞いたことはありませんか?
 「どんな歌を歌うかで、その人の大体の年齢がわかる」と。
 ということは、ひょっとして、「音楽感覚形成期」もあるのでは・・・
 もっとも、音楽の場合は、言葉より少し遅れて始まり、期間も長いのではと、自身の経験から思うのだが・・・
 12歳頃から20代前半ではないか、あるいは、30歳頃までかもしれない・・・あるいは、一般に「青年」と言われなくなる35歳頃までかも・・・
 いずれにせよ、「スリコミ期間」は、音楽感覚がのほうが長いことだけは確かだ。
 
 「音楽感覚」ってどんなもの?
 「味覚」というのは味に対する感覚ですよね。ある食べ物が「好き」「嫌い」「どちらでもないが食べられる」などといった感覚。
 ファストフードなどを食べ続けることによって、子供や若者の味覚の変化が起っていると最近よく問題にされるけれど、これもすり込まれた結果? 逆にすり込まれない結果として、野菜嫌いなどになってしまう・・・?
 
 音楽感覚もどうやらこれと同じような現象なのかな?・・・どういう歌が好きなのか、どういう傾向の音楽が好きなのか。演歌、ポップス、ジャズ、クラシック等々・・・その人の音楽に対する「好み」「趣味」なども、同じ音楽を何度も何度もくりかえし聞かされることによって、または、聞くことによって、知らない間に耳から脳にインプットされる。
 
 現代の日本人は、生まれた時から「西洋音楽」のシャワーを浴び続けているから、自然に「西洋音楽」の感覚がしっかりとすり込まれているはず。だから、一般に、日本の伝統音楽などの「非西洋音楽」に対してはあまり反応を示さない。
 私は、過去に、ロシアの民族楽器合奏用に作られた作品をを何曲もマンドリン合奏用に編曲したし、中国民族楽器合奏用に作られた作品も何曲か編曲した。それらの音楽に対する、マンドリン合奏を楽しんでいる人たちの反応はと言うと・・・
 ロシア音楽(西洋音楽)のほうは結構演奏してくれた(今も演奏してくれる)のだが、中国音楽(東洋音楽)のほうは、さっぱり見向きもされなかった。
 
 自身の過去を振り返ってみても、これと似た反応で・・・
若い頃(30過ぎ頃まで)は、いわゆる「邦楽」を聴いても、オトが鳴っているだけで、オンガクとしては何も入ってこない、ただ「退屈」なだけ・・・
 それが、35歳を過ぎるあたりから、少しずつ音楽として聴けるようになってきた・・・これは、元々持っている「民族としての感覚」が眠っていただけなのか、それとも、「邦楽」はすり込まれなかっただけなのか・・・?
 
 味覚に関してよく言われることだが、「トシを取ると味覚が変わってくる」という変化も確かにある。音楽では、若い頃はモーツァルトに何も感じなかったのが、トシを経るとともに少しずつ「いいな」と感じるようになってくる。このようなことは、単純にスリコミでは割り切れないような「何か」があるのでは・・・?
 
 さて、音楽ではなく「音」そのものに対しても、スリコミ現象はあるの?
 「マンドリンの音はこうでなくては」と、自分が「これが絶対」と思っている「音」が、どうやらマンドリン界にはあるらしい・・・それぞれの人、それぞれの地域で「自分(たち)の音が一番良い」と主張し、「異質」の音を「それもアリ」と認めない傾向・・・
 マンドリンを始めてから何年もずっと「一定のある音」を聞いていれば、その音がすり込まれ、それとは「異質」の音には反応しなくなる、あるいは、拒絶する・・・これは当然のことなのかもしれないが・・・
 
 少々古い話で恐縮だが、例えば、ヴァイオリンのオイストラッフ、グリュミオー、コーガンの音は、それぞれ全く「異質」と言って良いほど違う音だった。しかし、どの音も世界の一流の奏者の「個性あるヴァイオリンの音」として一般に認められていた。
 受け取る側に「好き嫌い」があって、どの音を「良い」とするかは分かれるだろうが、しかし、「音」そのものが問題なのではなく、それぞれの音でどのように演奏する(=音楽を表現する)かが重要なことであるはず。
 
 ところで・・・どんな感覚でもスリコミができるの?(以下次回へ)
 
===感覚のスリコミ(2)===
 学生時代、指揮者としてファルボの作品に取り組んだことがある。2回の演奏会で、ニ短調序曲を2回、田園写景、組曲「スペイン」をプログラムに組んだ。
 どうしてこんなにこだわったのかというと・・・それは、初めて「ニ短調序曲」をやった時、弾けないということで遅いテンポでやったこともあるが、とにかく、曲がよく分からなかった。だから、どうしてもファルボの音楽が分かりたかったから。こんな、普通では考えられないようなわがままな理由で取り上げ続けては、弾かされるメンバーは大迷惑ですね。今思い出しても、済まない気持ちになる。(若気の至りというやつですか・・・)
 
 さて、3曲を連続して演奏してみた結果はどうだったのか?
 結局、ファルボはよく分からない。その原因は「民族性の違い」ではないだろうかと、当時何かに書いた記憶がある。
 
 ここで、私自身の「音楽のスリコミ」経験を重ね合わせてみると・・・
 大学に入ってマンドリン音楽に接するまでは、歌謡曲や欧米の流行音楽など、いわゆる「大衆音楽」専門で、クラシック音楽と言えば、音楽の授業で「歌曲」を歌うことくらい。
 高校時代のある日、クラシック好きの友人が2,3曲お皿を回して聞かせてくれたことがあった。・・・が、ただ意味のない音が鳴っているだけ・・・
 
 ということは、ファルボをやっていた頃は、クラシック音楽のスリコミが始まったばかりで、よく分からなかったのも無理はない・・・?
 
 24歳頃から10年余り、クラシック音楽の勉強のために、様々な「名曲」を聴きまくった時期がある。作曲家は選ばない、とにかく、できるだけ多くの作曲家の作品を知る必要があった。
 つまり、自分は「今」作曲をしようとしているのだから、「過去」の音楽を作るわけにはいかない。そのためにも、「過去」から「今」に到る音楽感覚の流れをつかむ必要があった。
 
 歌謡曲の世界をすり込まれた感覚にとって、もっとも身近な音楽は、当然ながらロマン派の音楽。古典派のベートーベンだって、作品の持つロマン的な部分に共感。
 その後、休むことなく、現代音楽に向かって、次から次へと代表的な作曲家の作品を聴き続ける・・・ブラームス、ドボルザーク、チャイコフスキー、ドビュッシー、ラベル、ストラビンスキー、バルトーク、プロコフィエフ、ショスタコービッチ・・・それから、いわゆる「現代音楽」にたどり着き、ようやく、現代日本の作曲家の作品もその中に入ってくる。
 
 西洋クラシック音楽の「名曲」を知ることは、作曲法の変遷を知ることにもなるのだが、このほかに、予期しない「副産物」もうまれた。
 
 一つは、クラシック音楽の「感覚」がしっかり「すり込まれた」こと。
 ついでに、「天才」と言われる作曲家の音楽世界が「感覚」として「すり込まれた」こと。その結果、普通の作曲家の作品と天才との違いを「感覚的に」感じるようになった。
 例えば、FM放送の音楽番組で、モーツアルトが同時代のある作曲家が作った「序曲」に、序奏をつけた曲を聴いた時のこと。
 充実した深みのある序奏に続き、軽く薄っぺらいアレグロの本体。これほどはっきりと「音楽の中身」が違うとは・・・
 ちなみに、凡庸な作曲家の作品に序奏を付けたのは、モーツアルトは自分が天才だとは自覚していなかったからだという解説付きだった。
 
 もう一つは、演奏上の問題。
 聴いた作品はほとんどが「天才」が作ったもので、聴いた演奏は、ほとんど当時世界一流の演奏家によるもの。
 だから、「一流の演奏」、プロの演奏とはどのようなものなのか、これが「感覚」として徐々にすり込まれたこと。
 
 ところで、前回予告の「どんな感覚でもスリコミができるの?」について・・・
 
 たくさん聴いてきた作曲家の中で、感覚的に共感できるもの、知的感覚として興味を覚えるもの、それから、それらをほとんど感じないものなどがあった。
 どうやら、「感性」、あるいは、体質、生理感のような「フィルター」を通って「スリコミ」が行われるようだ。だから、感性が異なると普通は「感じない」から、その感覚はすり込まれない。先のファルボについても、これに当てはまるのではないか・・・?
 
 しかし、感性が異なっても、理屈としては「分かる」ということも確かにある。今では、ファルボの音楽はとてもよく分かる。彼が「天才」ではないことも・・・
(次回は、音楽が「わかる」「わからない」について・・・)
 
 
==「序曲」の裏曲目紹介==
本演奏会の初頭を飾るのは帰山栄治氏の「序曲」である。今回はコントラバスのパフォーマンスが入る平成版でお送りさせていただく。パフォーマンスを行うT 田氏は、カエリヤマの聖地であるみゃー大の出身であり、「歴史的序曲」の1~5をすべて演奏するという「カエリヤマ・ストレート・フラッシュ」を達成した、シニア・カエリヤマニストである。しかし「グランド・カエリヤマスター」への道は依然として遠い。同じくみゃー大出身のK野氏のマンドローネとともに本家の低音部隊を結成し、○○○に響く魂の告白を聴かせることであろう。
本演奏会の初頭を飾るのは帰山栄治氏の「序曲」である。今回はコントラバスのパフォーマンスが入る平成版でお送りさせていただく。パフォーマンスを行うT 田氏は、カエリヤマの聖地であるみゃー大の出身であり、「歴史的序曲」の1~5をすべて演奏するという「カエリヤマ・ストレート・フラッシュ」を達成した、シニア・カエリヤマニストである。しかし「グランド・カエリヤマスター」への道は依然として遠い。同じくみゃー大出身のK野氏のマンドローネとともに本家の低音部隊を結成し、○○○に響く魂の告白を聴かせることであろう。


14行目: 163行目:
<p style = "text-align: right">(コンコルディアのホームページより許可を得て転載)</p>
<p style = "text-align: right">(コンコルディアのホームページより許可を得て転載)</p>


===華燭の思い出===
==華燭の思い出==
昔話です。<br />
昔話です。<br />
大学卒業後、就職・配属先が愛知県一宮にある電気メーカー。<br />
大学卒業後、就職・配属先が愛知県一宮にある電気メーカー。<br />
38行目: 187行目:
でも、とっても、HAPPYでした。
でも、とっても、HAPPYでした。
<p style = "text-align:right">(神戸大学マンドリンクラブOBの静岡の成瀬)</p>
<p style = "text-align:right">(神戸大学マンドリンクラブOBの静岡の成瀬)</p>
===三楽章第三番のティンパニソロ===
==三楽章第三番のティンパニソロ==
第16回定演における,三楽章第3番初演にまつわる楽屋落ちです.
第16回定演における,三楽章第3番初演にまつわる楽屋落ちです.


72行目: 221行目:
<p style = "text-align:right">(粂内)</p>
<p style = "text-align:right">(粂内)</p>


===Ouverture Historiqueの読み方===
==Ouverture Historiqueの読み方==
今となっては「歴史的序曲」が正式に認められていない呼び方である事は有名ですが、その噂を聞いた時、当時の指揮者と「Ouverture Historique No. 4」のスコアを持って氏のところに正式な読み方を伺いに行きました。
今となっては「歴史的序曲」が正式に認められていない呼び方である事は有名ですが、その噂を聞いた時、当時の指揮者と「Ouverture Historique No. 4」のスコアを持って氏のところに正式な読み方を伺いに行きました。


79行目: 228行目:


なぜ最後だけ日本語? (^^;
なぜ最後だけ日本語? (^^;
----
[[メインページ]]

2025年10月25日 (土) 05:14時点における最新版

あしたの風

はじめに・・・

 生まれて初めてマンドリン合奏に参加し、「マンドリン音楽」というものを知ってから41年。この間、様々な音楽上の出来事を経験する中で、マンドリン合奏、マンドリン音楽に対する自分なりの見方や考え方ができあがってきた。  最初は、合奏で楽器を弾き、次いで、合奏を指揮し、それから、編曲と合奏指導にと範囲を広げ、最後に作曲に行き着いて今に至っているわけだが、その間、常に音楽の現場に身を置きながら、自身の音楽レベルの向上に努めてきた。また、主として作曲や編曲を通じて、マンドリン合奏の可能性を探りつつ、マンドリン音楽の未来について考えてきた。

 この連載は、マンドリン音楽・合奏を巡るあれこれの問題を一回ごとのテーマにしながら、最終的には「可能性と未来」をどのように考えるかに向かって進めて行きたい。

 1回目は、今でもはっきり覚えている過去のエピソードから、いくつか選んで簡単に紹介することにしよう。

合奏初体験  大学1年の6月頃、全体合奏。50人ものギターパートに混じって、へえー、合奏ってこんなものなんだ・・・マンドリン以外にも色々な楽器があるんだ・・・こんな音楽(クラシックの意)もあるんだ・・・

指揮初体験  大学2年の6月頃。80人を超える奏者を前にして、とにかく指揮棒を振り下ろしてみると、みんな一斉に音を出してくれた。指揮というのはこんなものなのかと、驚きの実感・・・

指揮のレッスンに通う  大学2年の秋頃から毎週1回、ある作曲家のもとへ。指揮のレッスンのはずなのに編曲の課題ばかり出される。10数年後にこの先生に偶然会った時、「えっ、君はあの時、作曲じゃなくて指揮を習いに来ていたの?」と・・・

中野先生の指導  大学2年の12月初め。マンドリン音楽界の大先輩、中野二郎先生に合奏の臨時指導を乞う。指揮は「気」にあり、か・・・

作曲ができない  大学2、3年の頃。2年上、3年上の指揮の先輩から集中的に音楽のことを注入される。3年上の先輩からは、夏休み中に2曲作曲してこいと言われたものの、2年続けて作曲の「さ」の字もできない。編曲とは質の違う作曲の難しさを知る。

合奏指導を始める  大学4年の時、某女子大マンドリンクラブの指導を始める。同時に演奏会用レパートリーの編曲も。3年後には、3つの女子大MCの指導に通う。自らの編曲と作曲、及び演奏法や合奏法の勉強に持って来いの音楽現場。

作曲のレッスンに通う  1967年(24歳)、作曲を学ぶべく中野二郎先生の門をたたく。「私は教えられないから、この人を訪ねて行きなさい」と言って、中田直宏先生を紹介される。ちなみに、中田先生が大学で教えた学生の中に、後にマンドリン界と関わるH氏、F氏がいる。兄弟弟子である。  この時、中野先生が自分が若かりし頃に独習した、R. コルサコフの日本語訳の和声法の本を見せてくれた。至る所に赤いアンダーラインが引いてある・・・

初めて作曲ができた  1967~68年、作曲の赤ん坊が初めて「よちよち歩き」できた。その時の曲が「前奏曲」。次いで、68~69年にかけて「ハ短調の序曲」を作る。初演は26歳になったばかりの時であったが、作ったのは25歳の時。「とても26歳の人が作った曲とは思えない・・・」などと言われるたびに、内心では「ムッ・・・」。

チルコロの指揮  1968年(25歳)から、名古屋マンドリン合奏団(チルコロ・マンドリニスティコ・ナゴヤ)の指揮者を5年間務める。その間の8回の演奏会全てに編曲作品を提供。2年ほど中断の後、さらに2年指揮をする。己の指揮の未熟さを痛感した時期でもある。プロの指揮を、演奏会やテレビで見続け、漸く、指揮の動きや表情の変化の音楽的意味が「必然」として分かるようになる。

作曲の悩み  1970年に「Ouverture Historique」を書く時から、徐々に「古典音楽の世界」から脱皮すべく、実作の中で様々な試みを始めるが、その結果・・・  1974年、「劫」の作曲が全く進まない。何を書けばいいのか、自分は何を書きたいのか、何も出てこない。この苦しみはいつまでも続くのか・・・囲碁の「コウ」は初心者にとって、いつまで続くか分からない苦しさ・・・よし、今度の曲のタイトルは「劫」と付けて、この苦しさから逃れようとするのではなく、この心理状態を作品の世界としよう・・・  この頃、ある音楽評論家に解決策を求めて相談したら、「自分の書きたい音を書けばいいんじゃない?」という助言。それが分からないから、出てこないから悩んでいるのに・・・

模索の10年  「劫」以後、自分の音楽の世界、自分の音楽の言葉を探し求める「模索」が、「民族性」をキーワードに10年ほど続く・・・

マンドリン音楽界の外の人たち  「東海音楽舞踊会議」という、音楽、舞踊及びそれに関係する人たちが集う「会」があった。「東海・・・」と言っても、メンバーは、ほとんどが名古屋、岐阜を中心に活動している音楽家や舞踊家であるが、創造上の様々な問題に関して互いに議論を交わす場である。  確か、28歳の頃に参加したと思うのだが、2、3年の間は、議論の場で盛んに使われる「創造性」とか「現代性」とかいう言葉の意味が分からなかった・・・「創造性がある」って、一体どういこと・・・?

マンドリンの音が好きになれない  1980年頃、「東海音楽舞踊会議」の合評例会で自作の「マンドリンアンサンブルのための念」(多分)が批評の対象になった時のこと。「マンドリンの音がなぜか好きになれない」と、つい漏らしてしまった。すかさず、「好きにならないで良い作品が作れるわけがないだろう!」とやられた。弁解、逃避、思い上がり等々を改めて知る。音楽や楽器に対して、謙虚に、誠実に、真剣に、素直に、いつも熱い思いを持って・・・

マンドリン音楽以外の作曲  この「東海音楽舞踊会議」で他ジャンルの人たちと知り合って、ギター・マンドリン音楽以外の音楽を作る機会が与えられた。室内楽、合唱音楽、邦楽器音楽、そして、劇音楽、バレエ、現代舞踊のための音楽等々・・・これらの経験は全てマンドリン音楽の作曲にもいかされている。

2度の時代

 ある人、ある物の長所と短所(欠点)にどのように対処しますか。 多くの場合、欠点にばかり目が行き、それを何とかして隠そうとする。 長所にはなかなか目が向かないから、それをもっと伸ばそうとすることができない・・・

 マンドリン合奏曲の作曲を始めて、しばらくすると、当然のことながら、「マンドリン合奏の特徴を生かした作品を書きたい」と思うようになる。ここまでは良いのだが、この後に、先に述べた落とし穴が待っていようとは・・・

 マンドリンのトレモロによるレガートのフレーズを考えた時、跳躍する音程は音がつながらない、特に弦が変わる場合、更に上昇するより下降する跳躍音程・・・まず、レガートにならない。それなら、2度音程をメインにモチーフを作れば、確実にレガートに演奏されるだろう・・・ 幸い(?)、我々日本人は、歴史的に長2度の音程に慣れ親しんでいる。わらべ歌がそうであるし、今はほとんど聞くことがなくなったが、豆腐売りのラッパは「トーフイー」と歌っていた・・・

 このようにして、「2度の時代」が始まった。より正確には、マンドリンの欠点を隠そうとして「2度にこだわった時代」であった。  これと並行して、トレモロを使用しないで表現するということも色々やってみた。しかし、これも、トレモロ自体の持つ「非音楽性」(音楽的にいやな音)という欠点を隠そうとすることが優先し、non-tremoloで表現する「音楽的優位性を押し出す」ということにはなっていなかった。

 「マンドリン合奏にギターという楽器が必要なのか」という大きな問題については、ここでは触れないが、ギターの扱いにおいても、その頃は同じような姿勢であった。  つまり、ギターという楽器は「音量が出ない、特に高音弦」「学生などのアマチュアの団体では技術的な制約が大きい」などの「欠点」がある。それ故、これらの欠点を隠すためにとった手段としては・・・  全体がピアノの部分で重要な役割を持たせるようにし、その部分は技術的に難しくしない。全体がフォルテなどでギターの音が聞こえないような部分では、技術的にもある程度難しくする。正確に弾けなくても全体に与える影響はほとんどないだろうという考え方。

 さて、これらマンドリンの問題にしても、ギターの問題にしても、結局は、「自分にとっていやな音が出ないようにする」という「そぎ落とし」の解決方法である。欠点を隠せば、ある程度「見場の良い」姿にはなるかもしれない、しかし、表わす音楽の世界は、小さくはなっても大きくはならないだろう。窮屈にはなるかも知れないが、伸び伸びと広くはならないだろう。

 1982年、神戸大学MCの委嘱により「Ouverture Historique No.4」の作曲に取りかかった。この時、10年近く続いていた「2度の束縛」を自ら解いてみようと、序奏部分と緩徐部分で思い切って跳躍音程を使ったレガートのモチーフを書いた。

 この作品は、「特徴と優位点」を意識的に表に出して行けば、その分「欠点」などは目立たなくなるという方向への出発点になった。そして、この後、マンドリンやギターの持つ「欠点」に対して、徐々に「やさしく」接することができるようになっていく・・・

感覚のスリコミ(1)

 「言語形成期」という言葉を知っていますか?  言葉や言葉に対する感覚を身につける期間のことで、大体10歳過ぎから15,16歳の間だと言われています。  この期間は、子供言葉から大人の言葉への移行期で、自分が育った地方の方言や大人の言葉を身につけ、基本的な言語感覚が形成されるのだという。そして、一旦身につけた(=すり込まれた)この言語感覚は一生変わらずに残るとも・・・

 カラオケなどで、こんな話を聞いたことはありませんか?  「どんな歌を歌うかで、その人の大体の年齢がわかる」と。  ということは、ひょっとして、「音楽感覚形成期」もあるのでは・・・  もっとも、音楽の場合は、言葉より少し遅れて始まり、期間も長いのではと、自身の経験から思うのだが・・・  12歳頃から20代前半ではないか、あるいは、30歳頃までかもしれない・・・あるいは、一般に「青年」と言われなくなる35歳頃までかも・・・  いずれにせよ、「スリコミ期間」は、音楽感覚がのほうが長いことだけは確かだ。

 「音楽感覚」ってどんなもの?  「味覚」というのは味に対する感覚ですよね。ある食べ物が「好き」「嫌い」「どちらでもないが食べられる」などといった感覚。  ファストフードなどを食べ続けることによって、子供や若者の味覚の変化が起っていると最近よく問題にされるけれど、これもすり込まれた結果? 逆にすり込まれない結果として、野菜嫌いなどになってしまう・・・?

 音楽感覚もどうやらこれと同じような現象なのかな?・・・どういう歌が好きなのか、どういう傾向の音楽が好きなのか。演歌、ポップス、ジャズ、クラシック等々・・・その人の音楽に対する「好み」「趣味」なども、同じ音楽を何度も何度もくりかえし聞かされることによって、または、聞くことによって、知らない間に耳から脳にインプットされる。

 現代の日本人は、生まれた時から「西洋音楽」のシャワーを浴び続けているから、自然に「西洋音楽」の感覚がしっかりとすり込まれているはず。だから、一般に、日本の伝統音楽などの「非西洋音楽」に対してはあまり反応を示さない。  私は、過去に、ロシアの民族楽器合奏用に作られた作品をを何曲もマンドリン合奏用に編曲したし、中国民族楽器合奏用に作られた作品も何曲か編曲した。それらの音楽に対する、マンドリン合奏を楽しんでいる人たちの反応はと言うと・・・  ロシア音楽(西洋音楽)のほうは結構演奏してくれた(今も演奏してくれる)のだが、中国音楽(東洋音楽)のほうは、さっぱり見向きもされなかった。

 自身の過去を振り返ってみても、これと似た反応で・・・ 若い頃(30過ぎ頃まで)は、いわゆる「邦楽」を聴いても、オトが鳴っているだけで、オンガクとしては何も入ってこない、ただ「退屈」なだけ・・・  それが、35歳を過ぎるあたりから、少しずつ音楽として聴けるようになってきた・・・これは、元々持っている「民族としての感覚」が眠っていただけなのか、それとも、「邦楽」はすり込まれなかっただけなのか・・・?

 味覚に関してよく言われることだが、「トシを取ると味覚が変わってくる」という変化も確かにある。音楽では、若い頃はモーツァルトに何も感じなかったのが、トシを経るとともに少しずつ「いいな」と感じるようになってくる。このようなことは、単純にスリコミでは割り切れないような「何か」があるのでは・・・?

 さて、音楽ではなく「音」そのものに対しても、スリコミ現象はあるの?  「マンドリンの音はこうでなくては」と、自分が「これが絶対」と思っている「音」が、どうやらマンドリン界にはあるらしい・・・それぞれの人、それぞれの地域で「自分(たち)の音が一番良い」と主張し、「異質」の音を「それもアリ」と認めない傾向・・・  マンドリンを始めてから何年もずっと「一定のある音」を聞いていれば、その音がすり込まれ、それとは「異質」の音には反応しなくなる、あるいは、拒絶する・・・これは当然のことなのかもしれないが・・・

 少々古い話で恐縮だが、例えば、ヴァイオリンのオイストラッフ、グリュミオー、コーガンの音は、それぞれ全く「異質」と言って良いほど違う音だった。しかし、どの音も世界の一流の奏者の「個性あるヴァイオリンの音」として一般に認められていた。  受け取る側に「好き嫌い」があって、どの音を「良い」とするかは分かれるだろうが、しかし、「音」そのものが問題なのではなく、それぞれの音でどのように演奏する(=音楽を表現する)かが重要なことであるはず。

 ところで・・・どんな感覚でもスリコミができるの?(以下次回へ)

感覚のスリコミ(2)

 学生時代、指揮者としてファルボの作品に取り組んだことがある。2回の演奏会で、ニ短調序曲を2回、田園写景、組曲「スペイン」をプログラムに組んだ。  どうしてこんなにこだわったのかというと・・・それは、初めて「ニ短調序曲」をやった時、弾けないということで遅いテンポでやったこともあるが、とにかく、曲がよく分からなかった。だから、どうしてもファルボの音楽が分かりたかったから。こんな、普通では考えられないようなわがままな理由で取り上げ続けては、弾かされるメンバーは大迷惑ですね。今思い出しても、済まない気持ちになる。(若気の至りというやつですか・・・)

 さて、3曲を連続して演奏してみた結果はどうだったのか?  結局、ファルボはよく分からない。その原因は「民族性の違い」ではないだろうかと、当時何かに書いた記憶がある。

 ここで、私自身の「音楽のスリコミ」経験を重ね合わせてみると・・・  大学に入ってマンドリン音楽に接するまでは、歌謡曲や欧米の流行音楽など、いわゆる「大衆音楽」専門で、クラシック音楽と言えば、音楽の授業で「歌曲」を歌うことくらい。  高校時代のある日、クラシック好きの友人が2,3曲お皿を回して聞かせてくれたことがあった。・・・が、ただ意味のない音が鳴っているだけ・・・

 ということは、ファルボをやっていた頃は、クラシック音楽のスリコミが始まったばかりで、よく分からなかったのも無理はない・・・?

 24歳頃から10年余り、クラシック音楽の勉強のために、様々な「名曲」を聴きまくった時期がある。作曲家は選ばない、とにかく、できるだけ多くの作曲家の作品を知る必要があった。  つまり、自分は「今」作曲をしようとしているのだから、「過去」の音楽を作るわけにはいかない。そのためにも、「過去」から「今」に到る音楽感覚の流れをつかむ必要があった。

 歌謡曲の世界をすり込まれた感覚にとって、もっとも身近な音楽は、当然ながらロマン派の音楽。古典派のベートーベンだって、作品の持つロマン的な部分に共感。  その後、休むことなく、現代音楽に向かって、次から次へと代表的な作曲家の作品を聴き続ける・・・ブラームス、ドボルザーク、チャイコフスキー、ドビュッシー、ラベル、ストラビンスキー、バルトーク、プロコフィエフ、ショスタコービッチ・・・それから、いわゆる「現代音楽」にたどり着き、ようやく、現代日本の作曲家の作品もその中に入ってくる。

 西洋クラシック音楽の「名曲」を知ることは、作曲法の変遷を知ることにもなるのだが、このほかに、予期しない「副産物」もうまれた。

 一つは、クラシック音楽の「感覚」がしっかり「すり込まれた」こと。  ついでに、「天才」と言われる作曲家の音楽世界が「感覚」として「すり込まれた」こと。その結果、普通の作曲家の作品と天才との違いを「感覚的に」感じるようになった。  例えば、FM放送の音楽番組で、モーツアルトが同時代のある作曲家が作った「序曲」に、序奏をつけた曲を聴いた時のこと。  充実した深みのある序奏に続き、軽く薄っぺらいアレグロの本体。これほどはっきりと「音楽の中身」が違うとは・・・  ちなみに、凡庸な作曲家の作品に序奏を付けたのは、モーツアルトは自分が天才だとは自覚していなかったからだという解説付きだった。

 もう一つは、演奏上の問題。  聴いた作品はほとんどが「天才」が作ったもので、聴いた演奏は、ほとんど当時世界一流の演奏家によるもの。  だから、「一流の演奏」、プロの演奏とはどのようなものなのか、これが「感覚」として徐々にすり込まれたこと。

 ところで、前回予告の「どんな感覚でもスリコミができるの?」について・・・

 たくさん聴いてきた作曲家の中で、感覚的に共感できるもの、知的感覚として興味を覚えるもの、それから、それらをほとんど感じないものなどがあった。  どうやら、「感性」、あるいは、体質、生理感のような「フィルター」を通って「スリコミ」が行われるようだ。だから、感性が異なると普通は「感じない」から、その感覚はすり込まれない。先のファルボについても、これに当てはまるのではないか・・・?

 しかし、感性が異なっても、理屈としては「分かる」ということも確かにある。今では、ファルボの音楽はとてもよく分かる。彼が「天才」ではないことも・・・ (次回は、音楽が「わかる」「わからない」について・・・)


「序曲」の裏曲目紹介

本演奏会の初頭を飾るのは帰山栄治氏の「序曲」である。今回はコントラバスのパフォーマンスが入る平成版でお送りさせていただく。パフォーマンスを行うT 田氏は、カエリヤマの聖地であるみゃー大の出身であり、「歴史的序曲」の1~5をすべて演奏するという「カエリヤマ・ストレート・フラッシュ」を達成した、シニア・カエリヤマニストである。しかし「グランド・カエリヤマスター」への道は依然として遠い。同じくみゃー大出身のK野氏のマンドローネとともに本家の低音部隊を結成し、○○○に響く魂の告白を聴かせることであろう。

本曲は1972年、名古屋大学ギターマンドリンクラブ第15回定演にて初演された、氏の初期の代表作である。この曲にも共通して流れる氏の初期の (あるいは今も)作品の中核思想=パート間の人間疎外の憂鬱の中で「低音パートの持つ宿命的な淋しさ」をしっかりと見つめ、いかにして打楽器の存在として生き抜くか=という問題は本曲において最も色濃く映し出されている。

曲は不安げな低音の刻みによって開始され、セロによって提示される主題はフーガ風に導入される。音色や雰囲気ともにベートーヴェンの弦楽四重奏曲第 14番やバルトークの弦楽四重奏曲第4番に比することもできるかもしれない。この導入ですべてが表現されていると言っても良い。すなわち、低音リズムにみられる「うろたえに空威張り」、セロの旋律の「不安と混沌」などである。したがってマンドラの導入で音が聴こえないのも、もちろん「萎縮と無謀」を表現したものである。そして、ギターのタンボーラが不気味に響くが、リハーサルで叩きすぎて指を痛めたため、本番叩くことのできなかった大馬鹿者が存在するのもこの部分である。

その後、徐々に盛り上がりをはじめ、圧倒的なアレグロへと突入する。ここで1stマンドリンが暴走するのも70年代の時代の表現を見事に捕らえたものといえよう。しかし残念ながら再帰するアレグロで暴走を聴くことができないのは、すでにそのような時代が過ぎてしまったことを意味するのであろうか?ともあれコンコルディアのカエリヤマ演奏史にまた一つ何かが刻み込まれたのであった。

(コンコルディアのホームページより許可を得て転載)

華燭の思い出

昔話です。
大学卒業後、就職・配属先が愛知県一宮にある電気メーカー。
気がつけば、稲沢にお住まいの帰山先生宅まで車で15分。
そんなわけで何回か遊びに行かせていただきました。
実家の家業に戻った後、クラブの後輩と結婚することになりました。
以下、その時の話です。

1985年5月5日私達は静岡で結婚式を挙げた。
その披露宴に帰山さん出席してくれた。スピーチもしていただいた。
もちろんクラブ内結婚なので、マンドリン合奏をということになり、帰山さんの指揮で、華燭の祭典をやっていただいた。指揮のことは、当日お願いしたのに、快く引き受けてくださった。(今考えてみると、相変わらずの恐いもの知らず)

その時のこと、
「帰山先生、これ華燭の祭典のスコアです。」
と差し出す私に、
「私を誰だと思っているのですか。」
とニヤリと笑われた。事態を飲み込むまで数秒かかった私は、あっと気がついてスコアを引っ込めた。
「失礼しました!」

もちろんスコアなしで振って下さった。う~ん、やっぱりすごいですね。
私達夫婦はおとなしく座って聞いているだけ・・・
帰山さんの指揮で弾きたかったなあ。とささやく2人。
でも、とっても、HAPPYでした。

(神戸大学マンドリンクラブOBの静岡の成瀬)

三楽章第三番のティンパニソロ

第16回定演における,三楽章第3番初演にまつわる楽屋落ちです.

この曲には大変珍しいティンパニ・ソロがありますが,ティンパニと合わせる機会がリハーサルを含めて数回しかありませんでした.
指揮者とティンパニ奏者の息が合わず,かなり不安視されていましたが,案の定,本番中にトラブルが発生しました.

指揮者など眼中になく熱演するティンパニですが,一体何をやっているのかさっぱり分らなくなり,指揮者のタクトも虚空をさまよい始めました.
誰もが「これは止まるかもしれない」と感じていました.

ティンパニ・ソロの次はベースのパートソロです.
当時2年生でベースを弾いていた私は,隣のパートリーダーに合わせて入る決心をし,リーダーと指揮者を半分ずつ視野に入れました.
リーダーは首を振りながらひたすら拍数を数えています.

(余談ですが,ベース弾きは指揮者や他のパートを信用しない傾向にあり,何十小節休みがあろうと楽器の裏で指を折って数えています.)

指揮者が哀れっぽい目でこちらを見て,リーダーがアルコで予備を取ったのを合図に飛び込みました.
驚いたことに,ほぼ完璧に頭がそろってパートソロに入り,何ごとも無かったかのように演奏が続けられました.

演奏中は,どこをやっているか分らなかったのは自分だけかと思っていましたが,結局,リーダーも含めて誰一人分っていませんでした.
パート全員がリーダーに合わせることだけを考え,リーダーもそれを感じてわざと大きなモーションで入ったのです.

後でレコードを聞くとティンパニとベースがかぶっていましたが,途中で止まるという醜態だけは避けることができました. めでたし,めでたし.

この曲は後に改作されたようですが,あのティンパニ・ソロは健在でしょうか.

(花井)

改作後でもあのティンパニ・ソロは健在です。 余談ですが、ローネ奏者も指揮者や他のパートを信用しない傾向にあり、「ゆらぎの彼方」の初演時などは、ひな壇の上で堂々とパートリーダーと休符の数を打ち合わせしている姿をビデオにしっかり撮られてしまいました。

(私信) 在学中はいろいろとご心配おかけしました。今ではまともな会社でまじめに働いています。>花井先生

(粂内)

Ouverture Historiqueの読み方

今となっては「歴史的序曲」が正式に認められていない呼び方である事は有名ですが、その噂を聞いた時、当時の指揮者と「Ouverture Historique No. 4」のスコアを持って氏のところに正式な読み方を伺いに行きました。

帰山先生はしばし考え、おもむろに
「ウーヴェルチュール イストリーク だいよんばん

なぜ最後だけ日本語? (^^;


メインページ