Ensemble ESCHUE

あしたの風

トップページ

本ページで、主宰 帰山栄治氏の随想を連載します。
ご感想・ご意見・取り上げて欲しい話題などがございましたら、eschue-request@mail.bass-world.netまでメールをお送りください。

目次

  1. はじめに・・・ (2002.10.25)
  2. 2度の時代 (2002.12.19)
  3. 感覚のスリコミ(1) (2002.12.27)
  4. 感覚のスリコミ(2) (2003.1.2)

はじめに・・・

 生まれて初めてマンドリン合奏に参加し、「マンドリン音楽」というものを知ってから41年。この間、様々な音楽上の出来事を経験する中で、マンドリン合奏、マンドリン音楽に対する自分なりの見方や考え方ができあがってきた。
 最初は、合奏で楽器を弾き、次いで、合奏を指揮し、それから、編曲と合奏指導にと範囲を広げ、最後に作曲に行き着いて今に至っているわけだが、その間、常に音楽の現場に身を置きながら、自身の音楽レベルの向上に努めてきた。また、主として作曲や編曲を通じて、マンドリン合奏の可能性を探りつつ、マンドリン音楽の未来について考えてきた。

 この連載は、マンドリン音楽・合奏を巡るあれこれの問題を一回ごとのテーマにしながら、最終的には「可能性と未来」をどのように考えるかに向かって進めて行きたい。

 1回目は、今でもはっきり覚えている過去のエピソードから、いくつか選んで簡単に紹介することにしよう。

合奏初体験
 大学1年の6月頃、全体合奏。50人ものギターパートに混じって、へえー、合奏ってこんなものなんだ・・・マンドリン以外にも色々な楽器があるんだ・・・こんな音楽(クラシックの意)もあるんだ・・・

指揮初体験
 大学2年の6月頃。80人を超える奏者を前にして、とにかく指揮棒を振り下ろしてみると、みんな一斉に音を出してくれた。指揮というのはこんなものなのかと、驚きの実感・・・

指揮のレッスンに通う
 大学2年の秋頃から毎週1回、ある作曲家のもとへ。指揮のレッスンのはずなのに編曲の課題ばかり出される。10数年後にこの先生に偶然会った時、「えっ、君はあの時、作曲じゃなくて指揮を習いに来ていたの?」と・・・

中野先生の指導
 大学2年の12月初め。マンドリン音楽界の大先輩、中野二郎先生に合奏の臨時指導を乞う。指揮は「気」にあり、か・・・

作曲ができない
 大学2、3年の頃。2年上、3年上の指揮の先輩から集中的に音楽のことを注入される。3年上の先輩からは、夏休み中に2曲作曲してこいと言われたものの、2年続けて作曲の「さ」の字もできない。編曲とは質の違う作曲の難しさを知る。

合奏指導を始める
 大学4年の時、某女子大マンドリンクラブの指導を始める。同時に演奏会用レパートリーの編曲も。3年後には、3つの女子大MCの指導に通う。自らの編曲と作曲、及び演奏法や合奏法の勉強に持って来いの音楽現場。

作曲のレッスンに通う
 1967年(24歳)、作曲を学ぶべく中野二郎先生の門をたたく。「私は教えられないから、この人を訪ねて行きなさい」と言って、中田直宏先生を紹介される。ちなみに、中田先生が大学で教えた学生の中に、後にマンドリン界と関わるH氏、F氏がいる。兄弟弟子である。
 この時、中野先生が自分が若かりし頃に独習した、R. コルサコフの日本語訳の和声法の本を見せてくれた。至る所に赤いアンダーラインが引いてある・・・

初めて作曲ができた
 1967~68年、作曲の赤ん坊が初めて「よちよち歩き」できた。その時の曲が「前奏曲」。次いで、68~69年にかけて「ハ短調の序曲」を作る。初演は26歳になったばかりの時であったが、作ったのは25歳の時。「とても26歳の人が作った曲とは思えない・・・」などと言われるたびに、内心では「ムッ・・・」。

チルコロの指揮
 1968年(25歳)から、名古屋マンドリン合奏団(チルコロ・マンドリニスティコ・ナゴヤ)の指揮者を5年間務める。その間の8回の演奏会全てに編曲作品を提供。2年ほど中断の後、さらに2年指揮をする。己の指揮の未熟さを痛感した時期でもある。プロの指揮を、演奏会やテレビで見続け、漸く、指揮の動きや表情の変化の音楽的意味が「必然」として分かるようになる。

作曲の悩み
 1970年に「Ouverture Historique」を書く時から、徐々に「古典音楽の世界」から脱皮すべく、実作の中で様々な試みを始めるが、その結果・・・
 1974年、「劫」の作曲が全く進まない。何を書けばいいのか、自分は何を書きたいのか、何も出てこない。この苦しみはいつまでも続くのか・・・囲碁の「コウ」は初心者にとって、いつまで続くか分からない苦しさ・・・よし、今度の曲のタイトルは「劫」と付けて、この苦しさから逃れようとするのではなく、この心理状態を作品の世界としよう・・・
 この頃、ある音楽評論家に解決策を求めて相談したら、「自分の書きたい音を書けばいいんじゃない?」という助言。それが分からないから、出てこないから悩んでいるのに・・・

模索の10年
 「劫」以後、自分の音楽の世界、自分の音楽の言葉を探し求める「模索」が、「民族性」をキーワードに10年ほど続く・・・

マンドリン音楽界の外の人たち
 「東海音楽舞踊会議」という、音楽、舞踊及びそれに関係する人たちが集う「会」があった。「東海・・・」と言っても、メンバーは、ほとんどが名古屋、岐阜を中心に活動している音楽家や舞踊家であるが、創造上の様々な問題に関して互いに議論を交わす場である。
 確か、28歳の頃に参加したと思うのだが、2、3年の間は、議論の場で盛んに使われる「創造性」とか「現代性」とかいう言葉の意味が分からなかった・・・「創造性がある」って、一体どういこと・・・?

マンドリンの音が好きになれない
 1980年頃、「東海音楽舞踊会議」の合評例会で自作の「マンドリンアンサンブルのための念」(多分)が批評の対象になった時のこと。「マンドリンの音がなぜか好きになれない」と、つい漏らしてしまった。すかさず、「好きにならないで良い作品が作れるわけがないだろう!」とやられた。弁解、逃避、思い上がり等々を改めて知る。音楽や楽器に対して、謙虚に、誠実に、真剣に、素直に、いつも熱い思いを持って・・・

マンドリン音楽以外の作曲
 この「東海音楽舞踊会議」で他ジャンルの人たちと知り合って、ギター・マンドリン音楽以外の音楽を作る機会が与えられた。室内楽、合唱音楽、邦楽器音楽、そして、劇音楽、バレエ、現代舞踊のための音楽等々・・・これらの経験は全てマンドリン音楽の作曲にもいかされている。

ページ先頭へ トップページ